Don't look at the carpet

映画や本について取り留めのない話をしています。ネタバレ有り。

『グレイテスト・ショーマン』は自画自賛がしたいんだろうという話

 

 

 『グレイテスト・ショーマン』はThis is Meが主題歌とされていたり、"No one ever made a difference being like everyone else. "という宣伝コピーから多様性がテーマであるという印象をもたらすが、それだけがテーマだとすると描写不足だと感じられる部分の多い作品になっている。しかしながら、そもそも映画のタイトルはグレイテスト・「ショー」ではなくて「ショーマン」という一人の人物を指している。つまりタイトルが示す通り、主人公はバーナムに違いないのであり、周りの人々はあくまで彼のストーリーの中では脇役なのである。したがって多様性というのは元々この作品のテーマとして成り立っていない。『グレイテスト・ショーマン』は素晴らしい楽曲とそのパフォーマンスで以て欠点も乗り切って進行していく作品であり、そんな自身を含めた娯楽作と呼ばれる映画たちの存在を称賛するための作品である。

 この映画は入れ子構造になっている。それが明らかなのは映画のオープニング、20世紀FOXのロゴが現れる部分だ。CGアニメーションで作られたロゴが登場する前に、短いバージョンのファンファーレと共に(以前使われていたものと同じか、よく似た)平面ロゴが登場する。これはこの映画が入れ子構造を持つ、つまり一種の自己言及的なものであると示しているのではないか。

  さらに、分かり易くメタ的なものを示す登場人物として批評家のベネットがいる。ベネットは最初バーナムのサーカスは低俗であるとして批判する記事を新聞に載せる。それについてバーナムは「劇場に楽しみを見つけられない批評家」と批判する。最終的にベネットはバーナムのサーカスについて「他の批評家なら”人類の祝祭”と呼んだだろう」と発言する。この変遷から「批評家から称賛されることはないが、観客は楽しんでいる」作品たちを肯定する姿勢が見て取れる。また、彼はリンドの公演の時には批判を和らげていることにも注目すべきだろう。リンドの公演は上流階級の人たちに気に入られる。つまり、この映画における「上流階級に認められること」は、(おそらく物語の外、現実における場合も含めての)「批評家に認められること」として、そして芸術的に優れている(本物である)として表現されている。これが象徴するのはアートハウス系と呼ばれる映画だろう。そして対象的に、観客からの人気を集めるものの、低俗だと批判され、またアンチも現れるサーカスが象徴しているのが娯楽映画だろう。

 さらにこのサーカスと批評家との関係は、この映画が実際に批評家からの評価は悪かったものの、観客からの評価は高い*1という状況になっているからこそ、より一層際立つものとなっている。そうすると、もしかしたら耳に残る楽曲たちに比べ欠陥の目立つ脚本という構造も、この状況を生み出すための意図的なものかもしれない、とさえ思えてくるのだ。

  サーカスに象徴されている娯楽作を讃える、というテーマに則ったエピソードの一つが、ジェニー・リンドのエピソードである。テーマを踏まえれば、リンドに対してなぜ退場後の物語上のフォローがされないのかという疑問は解決される。彼女はオペラ歌手で、上流階級の人々に気に入られるパフォーマーであるという設定だ。この映画で幸せになれるのはサーカス周辺の人々のみである。オペラ歌手であり決してサーカスのメンバーになることはない彼女がこの物語内で救われることはない。演劇からサーカスに転身したフィリップは、彼女とは対照的に、アンと結ばれサーカスも継ぐという幸福な結末を迎えている。

 またバーナムに閉め出されたレティ達は、なぜそのままパーティの場に殴り込もうとせず、サーカスの舞台に戻ってパフォーマンスをするのか。この映画が称賛するのはサーカスが象徴する娯楽作だ。だからパーティの場にいる人たち(に象徴されるもの)に自分たちのパフォーマンスを見せ認めてもらう必要はない。サーカスの面々はパーティの人々からの受容の代替としてサーカスでパフォーマンスするのではなく、自身の選択としてサーカスの舞台に立つ。そして主人公はあくまでバーナムであるので、サーカスの面々に関しては自己表現の場ができたという描写に留まる。

  この描写の欠如という映画の欠点は物語上のバーナムの欠点と対応している。バーナムは自分の夢の為にマイノリティを利用したのではないかという部分と、この映画自体も映画の成立の為だけにマイノリティを描写したにすぎないのではないかという部分だ。彼は反省はしたが、あくまでA Million Dreamsで「クレイジーと呼ばれても気にしない」と歌っていた最初の人物に戻っただけである。序盤の彼の行動の通り、嘘や誇張何でもありで突き通す人物だ。そしてサーカスの面々はバーナムを決して善人とは呼ばない。あくまで欠点はあるものとして認められているのだ。

 その彼によって作られたショーを楽しむ観客がいて、そしてそのショーが劇中で素晴らしいものとされる。加えて劇外でこの映画自体を楽しむ観客の存在によって、『グレイテスト・ショーマン』という作品そのものが称賛される状態が生まれるのだ。

 

 

 因みに、バーナム役にヒュー・ジャックマンをキャスティングしたのは、彼の良い人というイメージでバーナムの史実上と物語上の欠点を誤魔化そうとするためではないかという指摘も見られる。しかし、演技外の要素を利用するならば、彼が映画というジャンルに関しては「コミック原作の娯楽系映画がきっかけで世界的に有名になった俳優」であり、そして今も人気であるという点の方が重要だ。これが「有名な賞(例えばオスカー)を受賞したことがきっかけで有名になった俳優」だったら映画は別物になってしまっていただろう。

  更にその「コミック原作」がX-Menであるという事実は宣伝文句として多様性をテーマとすることへのエクスキューズにもなりうる。彼を有名にしたキャラクターは劇中でマイノリティとして描かれているからだ。実際に本人もインタビュー中でX-Menシリーズに言及している。*2